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大阪地方裁判所 昭和63年(ワ)3913号 判決

原告 喜村正樹

右訴訟代理人弁護士 楠眞佐雄

被告 上出智也

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、三〇〇〇万円及びこれに対する昭和六三年五月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告の学習塾経営

(一) 原告は、昭和五九年、原告肩書地において、四三〇万円を出資して、大阪教育社・港ゼミナール(以下「港ゼミナール」という。)の名称で、学習塾を開設した。

(二) 原告は、右学習塾の開設にあたり、高等学校の同級生であった被告を講師の一人として雇い、中学生を主体として英語・数学その他の学課の指導を行った。そして、昭和六〇年頃には、経営が安定し、生徒数約七〇名、講師数約八名、年収約一一〇〇万円程度の事業規模にまで拡大した。その発展の原因は、原告の教育にかける情熱と指導方法・生徒管理等、港ゼミナールの創意工夫によるものである。

2  被告の行為

被告は、港ゼミナール開設以来その経営に関与し、原告からは副塾長格として厚遇されていたところ、昭和六二年、就職のためとの理由で突然港ゼミナールを退職したが、その後も頻繁に港ゼミナールに出入りして生徒及び講師に対し、原告にとって好ましからざる影響を与え、昭和六三年、港ゼミナールの講師をほとんど引き抜いたうえ、港ゼミナールの所在場所からわずか二〇〇メートル足らずの場所に同種の学習塾を開設した。

被告は、右学習塾の開設に際し、事前に港ゼミナールの生徒名簿を利用して自己の学習塾への勧誘のために生徒に電話をしたり、港ゼミナールの講義中に講師を利用して宣伝をさせたり、チラシを配布するなどの行為をして港ゼミナールに通ってた生徒を奪い、原告の昭和六三年度(昭和六三年三月から翌年三月まで)の港ゼミナールの運営を不可能にし、将来にわたって港ゼミナールの経営を困難にしたため、原告は事実上港ゼミナールを閉鎖せざるを得なくなった。

3  被告の責任

被告の右行為は社会通念上正当な競争手段を逸脱した違法行為であり、原告は右行為により港ゼミナールを廃業せざるを得なくなって後記損害を被ったのであるから、被告は原告に対し不法行為に基づく損害賠償義務がある。

4  損害

原告の港ゼミナール経営による収入は左記のとおりであり、年毎の確実に増収となっていたことに照らすと、原告の損害は少なくとも合計五〇〇〇万円(年間一〇〇〇万円として五年分)を下ることはない。

(1)  昭和五九年度 六二七万二九五〇円

(2)  昭和六〇年度 八三六万六〇〇〇円

(3)  昭和六一年度 一一五〇万八四五〇円

(4)  昭和六二年度 一三五〇万〇〇〇〇円

5  よって、原告は被告に対し、不法行為に基づき、前記損害五〇〇〇万円のうち三〇〇〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和六三年五月一四日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び反論

(請求原因に対する認否)

1 請求原因1の各事実はいずれも認める。

2 同2の事実のうち、被告が昭和六二年に就職のために港ゼミナールを退職したこと、被告が昭和六三年に学習塾を開設したことは認め、その余は否認する。

3 同3は争う。

4 同4の事実のうち、原告の港ゼミナールを通じての年収額は不知、その余は争う。

(反論)

1 被告は、港ゼミナール開設時に大学生のアルバイトとして原告に雇われたにすぎず、大学卒業時に就職のためにアルバイトをやめるのは当然であるし、原告は、被告が昭和六一年夏頃には被告の就職の内定を知り、昭和六二年三月には欠員補充のため新しいアルバイト講師を雇っているのであるから、被告は港ゼミナールを突然やめたわけではなく、予定どおり円満にやめたのである。

2 被告は、港ゼミナールを退職した後、月に三、四回位港ゼミナールを訪れることはあったが、港ゼミナールの一部の講師と個人的な遊興・相談のためであり、「好ましからざる影響」など与えていないし、原告も被告の訪問を黙認していた。被告は、原告に出入りを拒否された後は一度も港ゼミナールを訪れていない。

3 被告が学習塾を開設するに至った経緯等は次のとおりである。

(1)  被告は、昭和六二年二月頃、個人的に付き合いのあった港ゼミナールで講師をしている者から、「原告の塾では拘束時間が長すぎるなどの理由で、他の仕事が欲しい。」旨相談を受けたことから、その者のために被告自身を代表者として学習塾を開設することを計画し、港ゼミナールの各講師に話したところ、同人らが講師として協力することを申し出たので、学習塾の開設を決意した。

(2)  被告は、昭和六三年初め頃、地理的・金銭的に破格の好条件が備わった物件であったことから大阪市港区〈住所略〉所在の物件を借りて教室を設け、同年三月一〇日から宣伝活動を開始し、同月二二日から、松下システムブレインこと適塾(以下「適塾」という。)の名称で学習塾を開設した。

(3)  適塾は、港ゼミナールから直線距離で二四〇メートル離れた所に所在するが、港ゼミナールが下水処理場を初めとする工業地帯の中にあり、港南中学校の通常使用されていない非常門に面していて、周辺の道が暗く不良少年のたまり場のようになっているのに対し、適塾は、右中学校をはさんで港ゼミナールの反対側にあり、右中学校の正門前の通りと同所付近の港通りに面している。また、両学習塾の間にはフランチャイズ方式の学習塾が、さらに港通り沿いの適塾から一〇〇メートルの位置にも学習塾が存在する。

4 原告は、被告が「港ゼミナールの講師をほとんど引き抜いた」旨主張し、現に適塾の講師の中には港ゼミナールでアルバイトをしていたことのある者がいるが、港ゼミナールの講師は大学生のアルバイトにすぎず、週二、三時間働いていたにすぎないし、正式な雇用関係もなく、周辺の学習塾の講師による兼任も頻繁に行われていたこと、適塾に移った講師の中には港ゼミナールをやめる意思はなかった者もいることに照らすと、講師を引き抜いたという言葉は適切ではない。

なお、被告経営の学習塾の講師は、多くは港ゼミナールとは関係のない新しい講師である。

5 原告は、被告が港ゼミナールの生徒を奪った旨主張するが、適塾における港ゼミナールに通っていた生徒の比率は非常に低いし、教育産業の対象は主に受験生(中学校でいえば三年生)であるから、港ゼミナールに通っていた生徒は他の学習塾に流れたか若しくは学校を卒業して港ゼミナールをやめたものである。

6 原告は、昭和六三年度、港ゼミナールの宣伝活動を積極的に行っておらず、港ゼミナールを継続して経営する意思があったか否か疑わしい。

7 以上の事実に照らし、被告の学習塾開設と原告の港ゼミナールの閉鎖、廃業とは全く関係がない。

第三証拠〈省略〉

理由

一  事実の経過

請求原因1の各事実、被告が、昭和六二年、就職のためとの理由で港ゼミナールを退職したこと、昭和六三年、学習塾を開設したことは当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

1  港ゼミナールの経営状況

(一)  原告は、昭和五九年、原告肩書地において、所有者である父親にビルの一室を借り、四三〇万円を出資して、大阪教育社・港ゼミナールの名称で学習塾を開設することとし、高等学校三年時に同級生であった被告に対し、共同出資の勧誘をしたが断られたため、同人を講師の一人として雇い、その他講師として三人の大学生(訴外三原某、同松山よういちろう及び同相馬某。他に短期大学の学生二名がいたこともあるが、中心は右の四名である。)を時間給のアルバイトとして雇い、中学生を主体として小学校の高学年から中学三年生までを対象として(のちに高校生をも対象とするようになった。)、英語・国語・数学その他の学課の指導を行った。

(二)  港ゼミナールの授業内容は、各講師が市販の手引書を利用して決定しており、教材も各講師が書店で購入してきたものを利用していた。原告は、港ゼミナールに、パーソナルコンピューター(以下「パソコン」という。)を設置して、講師が作成した問題の保管、生徒の名簿の管理、経理(主に月謝の管理。)などに利用していた。

(三)  港ゼミナールは、開設当初、生徒数が二〇人位であったが、昭和六〇年頃には、経営が安定し、生徒数約七〇名(大半は港南中学校の生徒であった。)、講師数約八名、年収約一一〇〇万円程度(昭和六一年度の原告の所得税申告額)の事業規模にまでに拡大し、その後も毎年増収していた。港ゼミナールでは、春・夏・冬に臨時講習も行っていたが、多いときには一〇〇人余りの受講者があった。

(四)  被告は、他の学習塾で時給三五〇〇円から四五〇〇円位で講師のアルバイトをしていたが、港ゼミナールでは他の講師との関係もあって時給一八〇〇円であったので、原告から、交通費を含めて月八万円の調整手当の支給を受けており、学習塾の講師の経験も豊富であったことから、港ゼミナールの他の講師との関係では中心的立場になっていた。

(五)  被告は、昭和六一年四月に同志社大学四回生となったので就職活動を開始し、同年夏頃には久保会計事務所に就職が内定したので、原告に対し、昭和六二年三月には港ゼミナールを退職する旨を表明し、原告もこれを了承していた。そして、被告は、同年一月、事実上生徒を教えるのをやめ、同年三月の大学卒業と同時に、他の二名の講師とともに、正式に港ゼミナールを退職した。原告は、同月、欠員を補充するため、港ゼミナールの講師として新しいアルバイト学生を雇った。

2  被告の学習塾開設に至る経緯

(一)  被告は、港ゼミナールの講師達とは個人的な付き合いがあったので、退職後も月に数回同ゼミナールに遊びに行っていたが、昭和六三年初め頃、原告に出入りを禁止されてからは行かなくなった。

(二)  被告は、昭和六三年一月頃、港ゼミナールの講師をしていた者など数人の後輩に、「アルバイト先を斡旋して欲しい。」旨相談され、同人らの収入獲得に協力するため新しい学習塾を経営する計画をたて、同年二月頃、港ゼミナールで講師をしている者たちにも声をかけて協力を依頼し、被告名義で銀行から融資を受け、他に被告を含めて五人位で合計四〇〇万円の出資金を出し合って、地理的・金銭的に好条件であったことから大阪市港区〈住所略〉の物件を借りて教室を設け、同年三月二二日から松下システムブレインこと適塾の名称で、小学校の高学年から高校生までを対象とする学習塾を開設した。

適塾は、港ゼミナールから直線距離でわずか二四〇メートル(徒歩約一〇分)しか離れていない所に所在するが、港ゼミナールが下水処理場を初めとする工業地帯の中にあり、港南中学校(大阪市港区三先所在)の通常使用されていない非常門に面しているのに対し、適塾は、右中学校をはさんで港ゼミナールの反対側にあり、右中学校の正門前の通りと同所付近の港通り(六車線の大通り)に面している。また、両学習塾の間にはフランチャイズ方式の学習塾が存在し、さらに港通り沿いの適塾から一〇〇メートルの位置にも学習塾が存在する。

(三)  適塾の開設にあたっての講師としての参加者としては、当初一〇人位(訴外島田某を含む。)がアルバイトを希望していたが、実際講師として授業をしたのは訴外沢村某(以下「沢村」という。)、同中本某、同安積某、同松山昌史、同池田吉隆(以下「池田」という。)及び同上田某(以下「上田」という。)の六人であり、右六人のうち上田以外は港ゼミナールで講師のアルバイトをしたことがあった。大阪市港区周辺の地区では、学習塾の講師のアルバイトの掛け持ちをする者が多く、右五名の中には港ゼミナールをやめるつもりはなく適塾との掛け持ちを考えていた者も含まれている。適塾のアルバイト講師の時給は、講師としての経験年数に合わせて一一〇〇円から二五〇〇円であり、港ゼミナールに比べて金銭的に特に有利ということはなかった。

被告及び適塾の講師らは、昭和六三年三月一〇日頃から適塾の宣伝活動を開始したが、その内容はビラ配りが中心で主に港南中学校を初め中学校の前で、街頭などを中心に配っており、他には講師個人の電話による勧誘、いわゆる口コミなどであった。

適塾開設時の生徒数は六〇人位であり、そのうち港ゼミナールから移った生徒は二〇人位であった。

(四)  被告は、対外的には適塾の代表者になっているが、本業として久保会計事務所に勤めているので、適塾を訪れるのも、適塾の給料日か、適塾の講師から用事で呼ばれたとき位であった。

適塾は、開設当初の頃から、被告の指示の下に、実質上は沢村と池田が運営しており、その現在の生徒数は六〇人位であり、講師は一〇人でそのうち七人は他の学習塾と講師を兼任している。適塾の現在の収入は一か月一二〇万円位であり、そのうち人件費が七〇パーセント余りを占め、その他は諸費用になるので、現在利益はあがっていない。

3  港ゼミナール閉鎖の経緯

(一)  原告は、昭和六三年度の生徒募集の方法として、昭和六三年一月頃からチラシ一二万部、ステッカー及びビラを五〇〇〇部から一万部位作って配付した。

(二)  港ゼミナールでは、パソコンで生徒の名簿の管理、経理などをしていたが、昭和六三年三月一六日、月謝ファイル(パソコンのフロッピー)を、同月二二日未明、右パソコン、電話機及び大型ホッチキス等を盗まれたため、昭和六三年度の生徒の募集・申込受付に支障をきたした。

(なお、〈証拠〉中には、右窃盗行為は被告が原告の塾経営を妨害するために行ったものである旨の供述部分があるが、憶測の域を出ておらず、被告の行為であることを推認するには足りず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。)

(三)  港ゼミナールは、昭和六三年三月下旬、講師五人の体制で昭和六三年度の授業を開始したが、適塾に生徒が流れたこと並びにパソコン及び電話機等の盗難で生徒募集・申込受付に支障をきたしたことが原因で生徒が十数人しか集まらなかった。そのため、四人の講師が港ゼミナールをやめて適塾へ移り、更に、原告は、適塾との兼任を申し出ていた池田を解雇した。その結果、港ゼミナールの講師は原告を含めて三人となり、訴外松山某ともう一人の講師が授業を行ったが、間もなく経営困難となり、港ゼミナールは閉鎖倒産した。

以上の事実が認められ、〈証拠判断略〉

なお、原告は、被告は、港ゼミナールの経営に関与し、副塾長格として厚遇されていた旨、被告は、昭和六二年突然港ゼミナールを退職し、退職後も港ゼミナールに出入りして生徒及び講師に原告にとって好ましからざる影響を与えた旨、また、被告は、適塾の生徒を募集するに際して、港ゼミナールの生徒名簿を利用して同ゼミナールの生徒に架電したり、同ゼミナールの講義中に講師を利用して適塾の宣伝をさせた旨主張し、〈証拠〉にはこれに沿う記述及び供述部分があるが、右記述及び供述部分は前掲各証拠に照らして措信することができず、他に原告の右主張を認めるに足りる証拠はない。

二  被告の行為の違法性

前記認定の事実によれば、被告の開設した適塾が港ゼミナールからわずかの距離にあり、講師・生徒が一部港ゼミナールから適塾に移ったため、昭和六三年度に港ゼミナールに通う可能性があった生徒がかなり適塾へ流れたことが推認され、適塾の開設が港ゼミナールの閉鎖倒産の一因をなしていることが認められるが、被告は、港ゼミナールの一部の講師など数人の後輩から相談されて学習塾開設を計画し、港ゼミナールの講師らにも協力を依頼したもので、給与面で必ずしも有利とはいえない適塾に港ゼミナールの講師が移ったのは、被告の引き抜きがあったからというよりは、むしろ港ゼミナールの一部の講師が被告の計画に賛同して適塾に移ったと認められるし、生徒の募集方法についても、ビラ配りが主で、他は電話による勧誘や口コミなどを併用したものであったと認められ、原告主張のような港ゼミナールの生徒名簿を利用して生徒募集をしたとか、同ゼミナールの講義中に講師を利用して適塾の宣伝をさせたり、チラシを配付するなど、原告の塾活動を妨害する意図でなされた行為があったとは認めることはできない。

したがって、被告の適塾開設は、その他、近隣にも港ゼミナールと同様の学習塾が存在することも考慮すると、適正な自由競争の範囲内の行為であって、社会通念上正当な競争手段を逸脱した違法な行為であるとは到底いえない。

三  結論

以上によれば、原告の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がないことからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 見満正治 裁判官 佐藤嘉彦 裁判官 脇博人)

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